2009年12月26日土曜日

クリスマス

プロテスタント諸派の教会のキャンドルサービスに行ってきました。

クリスマスに教会に行くのは初めて☆よいお話が聞ければと思い足を運びましたが、
入った途端になんとなく体に重だるさを感じ、気持ちが悪くなり、
早々に帰りたいモードxxxでも、折角来たのだからと我慢、我慢(><)

聖書の朗読、讃美歌の合唱、ハンドベルやオルガンの演奏の後に、牧師様のお説教がありました。
本当の意味でのクリスマスとはというお話から、金城重明牧師の、沖縄戦の「集団自決」の際に家族を殺め、捕虜として生き残り、絶望の中でキリスト教と出会い慰められていったお話になりました。このお話は少し前にNHKの番組で取り上げられたそうです。
その時の状況を嫌でも想像させられるような牧師様の熱弁に圧倒され、気持ち悪さの中、気が付いたら涙目になっていました・・・。
気分はもう、ハッピークリスマスどころではなく、身も心もかなりつらい状態に。

「~飼い葉おけと変わらない私のうちにおられます」

「~低きものを 高めたもう みめぐみ、おごるものを 引き降ろして、散らしたもう、みちから」

「~罪ある世界の救い主」

「~暗きこの世に光あふれぬ」

罪、暗、低い、高い、おごり、引き降ろす、散らす・・・。

讃美歌がかなり重く感じる。。。

自分の陰の部分に導かれていく・・・。

いや、私が向かって行ってしまっているのだな・・・。

人の命自体が罪なのか・・・。

私は生きていていいのか・・・。

生きていくには許しを乞わないといけないのか・・・。

私は幸せボケしているのか・・・。

人の内にある闇が、キリスト教に身をゆだねることによって光と変わっていくのであれば、
なぜキリスト教信者の多いアメリカで人を殺める事件が多いのか・・・。

これだけ罪深い気持ちになる教えなのに、なぜ罪はなくならないのか・・・。

教会のチラシに、「いのちの闇が現実に存在し、それが深まれば深まるほど、イエスキリストという光は、いよいよ輝きを放ち、私たちにおおいなる希望と慰めをもたらす」と書いてありました。

どうにも身動きが取れなくなった時、私は何に救いと慰めを求めるだろう・・・。

今は、「エヴァンゲリオン」(福音、福音書)より、「新世紀エヴァンゲリオン」のほうが私の心に希望が湧く?かもしれません・・・。
などと書いたら怒られてしまいますねxxx
とりあえず今は、自然を尊び、私と繋がっていてくださる全ての人の幸せを願い、感謝しながら生きていくことができれば幸せです。。。
暗くなってしまう言葉を沢山使ってしまいました、ごめんなさいxxx

いつもありがとうございますm(__)m
感謝を込めて☆

0 件のコメント:

コメントを投稿